与自然的邂逅译文

李盛老师

与自然的邂逅译文

  自然との出会い

  ブナ林の四季

  雪国の春はブナ林の芽吹きから始まると言っよい。ちろん細かく見れブナの緑に先駆けマルバマンクが咲き、タムシバ(ニオイコブシ)が咲く。しかし人の心にしみみと春の喜びを感させくれるのは、のブナの芽吹きであろう。まだ風冷たく、根雪が林地に残っいるうちに、ブナの新緑はうっらと稜線を染める。あるかなきかのの新緑に、長く厳しい冬に耐えきた雪国の人は心のときめきを抑えるとができない。しかし、まだはっきりと春が訪れたわけではないから、のときめきをあからさまにるのはう少し待とう、そういった心境だと言えいいだろうか。の時そが雪国に暮ら人々にとっ最高に幸せな時なのである。

  やが、誰の目に明らかに新緑は稜線を染めながら登り、全山を緑で覆っいく。そのろには林内の根雪ほとんど消え、つつ類をはめ、低木類が林床を飾るのである。しかし、いつながらの春の訪れとは言いながら、どうしう順序を間違え、次から次へと植物たちは動き出のであろうか。その移り変りは、恰生き物たちの成長しいくように、森林全体また時節ととに変化を遂げいく。天の摂理とは、まさにのようなとを言うのではなかろうか。

  夏から秋にかけは実りと収穫の時節である。最収穫というのは人間をはめ動物側のとだから、植物にとっ最生命感にあぶれる時期そが夏のだといったうがいいかしれない。林業にとっはやっかいな真夏の下刈りという作業、雑草や小低木かれ見れ、とんでない迷惑なとである。には人それぞれの自然がある。自然保護と林業振興との、いれの立場が優れいるというのでない。ひとはそれぞれの立場で自然に接るのだというとを、我々は心の底で認め合いながら生きでいるのである。

  いかなる存在に凋落の時が来るとを、自然はその長い年月の移ろいの中で?また一年という短い間に示しくる。やがブナの葉は落ち着くし、樹木全体が冬に備えた厳しい表情に変っいく。その厳かなたたまいといい、また風雪に耐えるけなげな姿といい、ブナ林が真の迫力を見せるのに、冬に勝る季節はないであろう。或る人はその姿をおそろしいというましれない。またある人はそれそ美の極致と評価るかしれない。評価はどうあれ、黒々と静まり返った冬のブナ林の中では、う既に何かが動き始めいる。巡り来る春に、再び山をおおいつく葉が、早く必要な枚数だ冬芽の中に準備されいるのである。でまた、わたしたちは自然の偉大さに驚かにはいられない。自然の中に身を置いみ、人間は初め自然の大きさにふれるとができるのである。同時に、大自然の一員ちし、その中に包み込まれた自分を認識できるであろう。

  ブナ林という自然界の片隅のしかその移り変りの一断面をのぞいみただけで、自然は、いかに多彩で奥行きが深いのであるかを知るとができる。その奥深さが実感できるのは、そに人間がかかわっいるからにほかならない。確かに日本人は自然に極め強い愛着を抱いいる。また自然に対し研ぎ澄まされた感性を持っいるの事実である。それは日本文化のさまざまな領域に反映されいよう。しかし、それはあくまで抽象的な?観念的な自然でしかないのではなかろうか。自然を人間から切り離し眺めるのではなく、むしろ自然を友とし、自然のろに迫るとが大切なのである。

  れまで日本では、植物の名前一つにし、しろヨーロッパの文学作品から多くを学んだような気がならない。実際にみたとない植物なのに、スグリとカアラセイトウという名前はよく目にしたのである。しかそれらの植物は、物語の背景としかなり大切な役割を果たしいた。それに比べれ、詩や歌はとかくとし、日本の物語に登場る森の植物は、その種類数しれたのである。ブナなど、今でそ、名前を知らない人たちは少ないが、ほとん

  ど日本の物語の中に現れいない。ういう、ちょっとした例からみ、日本人がどちらかといえ、感情という側面かりで自然と付き合っきたとを、改め思わにはいられないにである。れから必要なのは、実際に大自然の中に身を置き、そに新たな楽しみを見出しいくとであろう。

  何はおい、ま山を散策し、自然界の生の鼓動に耳を傾けよう。うした自然との触れ合いの中で、自分自身の心再び息いくるに違いない。

  与自然的邂逅

  雪国的春天应该说是从山毛榉树林初绽新芽开始的。当然,如仔细看的话,在山毛榉泛绿之前,圆叶金缕花已经开放,柳叶木兰也已经开放。不过使人内心深刻地感受到春天的喜悦之情的,还是这山毛榉的新芽吧。当北风尚寒,林地中残雪犹存之际,山毛榉的新绿已悄悄披上了山脊。正是这似有似无的新绿,使长期忍受着严冬的雪国人的心中,有一种按捺不住的喜悦。但是,由于还没有清楚的春天来到的迹象,想要直率地表达这种喜悦,恐怕还尚待时日,应该说是这样一种心情为好吧。正是在这个时候,对生活在雪国的人们来说,才是最幸福的时刻。

  用不了多久,谁都可以清楚地看到,新绿一边将山脊浸染,一边向上攀升,终于让满山都披上了绿装。这个时候林子里的残雪也几乎化尽,由映山红打头阵,低矮的灌木将林子的植被装点起来。虽说是永恒不变的春天到来,为什么植物们会按照永远不变的顺序,一批又一批地轮番出动呢?这样的变化,恰如生物本身的生长状态,从幼年到少年,再到青年,渐渐成长起来那样,森林中的全体成员也与季节一起完成了这种变化。所谓天意如此,说的不正是这样的'事情吗?

  夏去秋来,是收获果实的时候。不过所谓收获是以人类为首的动物方面的事情,对于植物来说,最为生机勃勃的时期也许是夏天了。对林业来说,麻烦的是盛夏的除草工作,如果从杂草和低矮灌木方面的立场来看,是出乎意料的麻烦事。在这里有人们各自认可的自然。自然保护和振兴林业,从各自的立场来说并不都是好的。在我们的内心深处,对于人们站在各自的立场上接触自然这件事,我们一边对此加以认可,一边生存着。

  任何事物都有凋零的时候,自然在这漫长岁月的迁移中,还以一年的短暂期间向我们展示。没过多久,山毛榉的叶子有了归宿,林子里的全体成员都在为准备过冬的严重情况转变。说是庄重的样子也好,说是经受风雪的坚强姿态也好,显示山毛榉扣人心弦的力量,则再也没有比冬季更好的季节了。也许有人会说这种样子很可怕,也许有人会评论说唯有这才是美的极致。不管如何评价,在漆黑的重新变得寂静的冬天的山毛榉林中,已经有某种东西在开始萌动。而在循环而至的春天,再次覆盖山峦的山毛榉的叶子,早就按照需要的叶片数在冬芽中作好准备了。在此我们还是要情不自禁地感叹自然的伟大。将自己置身于自然之中来观察,人类才能开始感触到自然之博大,同时作为大自然的一员,方才能够认识到包含在其中的自己吧?

  只要略微看一下山毛榉林这个自然界的角落,看一下它变迁中的一个横断面,我们就可以知道自然是多么丰富多彩,博大精深。对其深奥的内涵能够切身感受,无非是因为它与人类切切相关。确实,日本人对自然抱着极强的爱恋,还对自然持有变得尖锐起来的感性认识,正如日本文化的各个领域所反映的那样。但是,说到底那也不过是抽象的,观念的自然而已,我们必须找回更加现实的与自然的一体感,不是将自然与人类世界分割开来观察,而是将自然作为朋友,接近自然的精神,这才是最重要的。

  日本直到现在,即使是一个植物名称,也给人以一种大多是从欧洲的文学作品中学来的感觉。虽然是实际上未见过的植物,但是醋栗,洋紫罗兰等名称却经常见到。而且这些植物作为故事背景,果然起着相当重要的作用。与此相比,暂且不论诗与歌,在日本故事中出现的森林植物,其种类和数量都十分有限。山毛榉也是如此,如今不知道它的名称的人很少,但它却几乎从未在日本的故事中出现过。从这些微不足道的例子看来,人们不得不作这样的考虑,即日本人无论从哪一方面来说,只有情感这个侧面能与自然交往。今后要做的,就是将自己置身于实际的大自然中,从那里也许能发现新的乐趣吧。

  将任何事情都放下,先去山中走一走,在森林中散散步,听一听自然界的生命的搏动。在这样与自然的互相接触中,一定能让自己的身心再次得到喘息。